坐禅をし始めの頃は、雑念が次から次へと湧き起ってくる。そのうちに坐禅の型もぐらついてしまう。そんな時、師家(しけ)が持っている警策(警覚策励(けいかくさくれい)の略で、眠りを覚まし、修行を励ますための棒)が飛んでくる。
「喝」といえば中国唐代の臨済宗祖の臨済義玄が有名です。また、義玄の言葉に「随処作主・立処皆真」があります。
臨済は、何かといえば弟子に「カァーツ」と大きな声で応えていました。
「仏法のぎりぎり肝要のところは何か」と問う僧に、臨済は払子(ほっす)(長い獣毛を束ねて、柄を付けた法具。日本では煩悩を払う標識)を立てた。
僧は「カァーツ」と一渇した。臨済もまた一渇してその僧を打った。
臨済は言った。「仏法を修行する者は身命(しんみょう)を惜しんではならぬ。わしはかつて黄檗(おうばく)先師に三度、仏法のぎりぎり肝要のところを問うて三度棒で打たれた。できたらもう一度ああいう棒を受けてみたいものだ。」
その時、一人の僧が進み出た。臨済は棒を差し出した。僧が棒を受け取ろうとすると、臨済はその僧をすかさず打った。
〜 四つの「喝(かつ)」 〜
「喝」は、まるで禅問答のように難解で、訳がよくわかりません。そのためか、同じ『臨済録』勘弁では、臨済は「喝」を四種類に分けて示しています。
(1)「ある時の一喝は金剛王の宝剣」
金剛王の宝剣は、もっとも堅く、もっとも鋭利で、どんなものでも断ち切ることができるように、ある時の一喝は、迷いや妄想、不安といった心の動揺を断ち切る喝です。
(2)「ある時の一喝は踞地金毛(こじきんもう)の獅子」
金色の毛の獅子が地面にうずくまって、まさに獲物に飛びかかろうとしている姿は、凛とした威力を漂わせて周囲を圧倒します。ある時の一喝は、獅子のような寄りつく隙を与えない威力を持つ喝です。
(3)「ある時の一喝は探竿影草(たんかんようぞう)」
探竿影草とは、竿の先に鵜の羽をつけて、水中の魚を探って(探竿(たんかん))、浮き草(影草(ようぞう))の下に集めてとる漁法です。このことから、ある時の一喝は、探りを入れて力量を試す喝です。
(4)「ある時の一喝は一喝の用を作(な)さず」
これは自然のままに、何の作為も思惑も加えない喝で、「無喝の喝」といわれるもので、悟りの境地から吐かれた最上級の喝とされています。
喝は、それ自体は無義語ですが、そこにはじつに深い響きがあります。私たちは、さまざまな迷いや悩みをかかえて、現実の壁の前で立ち止まっていることがあります。そんなときの一喝は、現状を打ち破る力を持っています。
【 禅 と 経 営 】
■自らの経営の現状を打ち破り、常に謙虚に見直すことです。
■自社の未熟さを知り、顧客サイドで思考する。
■高い理想、「あるべき姿」を明確にし、自社の経営に喝を入れる。
■横着心、傲慢心に喝を入れる。日々改善の経営をする。
経営コンサルタント 飯塚保人
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様々な出会いに感謝し、私個人の経験と日頃感じたことなどを少しずつご紹介しながら、がんばっている人のために、何がしかのヒントを差し上げられたらと思っています。




















ビジネスの世界は、評価ということなしには語れない。
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